日本人の中国への大きな誤解 と おもてなし

歴史的にみていつから 日本人 の 中国 への蔑視が始まったのか。

江戸時代の極末期までは、つまり日本オリジナルの国学が盛んになる前までは孔子孟子朱子学陽明学などの儒学が日本の教育の中心でしたし、寺小屋や藩校には孔子廟が祀られていました。また、宗教界においては中国の様々な仏教宗派が日本に根付き高僧を迎え、それも文化や科学の橋渡しともなってきました。このように漢、唐、宗、明国から文化、思想、政治、宗教的影響を常に強く受けて成り立ってきた経緯があったので日本が中国を下に見る風潮はほとんどなかったでしょう。白村江、倭寇、秀吉の明国、朝鮮への出征など何度か大陸への侵略行為もありましたが、けっして侮るような相手でもありませんでした。常に最強国として意識していたのです。

おそらく、変化が出始めたのは、
① 明治維新前後の蘭学の興隆、アヘン戦争、清国の内乱による中国国土の荒廃。

② 皇国思想のためのオリジナリティを出すための中国由来のあらゆるものの排除。

③ ②につながるが脱亜入欧政策、と西洋に対抗(東洋のほとんどが西洋に植民地化されていた)するための聖域としての日本の選民思想

④ 日清戦争の勝利

⑤ 日露戦争以降の帝国主義による覇権国家としての傲慢

⑥ 満州統治、上海、武漢重慶、天津などの租借地、駐屯政策からの身分差別や上下関係。

⑦ 中共への対抗のための日本人庶民への中国や中国人に対する差別的な思想植え付け。特にテレビや新聞雑誌を介して。by 一般行政、自民党や米国、米国情報関係

⑧ 日本に来ている不良中国人を実際に目にして。

などが原因として間違いないでしょう。 (但し、善悪虚実は別問題とする。)

ということは、この風潮はもう100年~150年近く根付いたものであり、老齢化率の高い日本ではなかなかその固執した考えが急激に変わるということはないと思いますが、最近は人の往来、情報(特にインターネット)によりまた、新たなステージに入ってきています。
 10年前までは共産圏として日本人も容易に中国国内を自由に見て回ることが出来なかったですし、真実の情報も入ってこなかったですし、日本と中国ではまだまだ貧富の差が大きかったことも大きなハードルとなっていました。しかし、これから10年はハード、ソフト面で実際にその優劣の逆転を見せつけられることによってこの風潮は大きく大きく変化していくでしょう。

 そして、逆に中国人側も日本人に対してだんだん「敵意」がなくなってきました。これも、人の往来が増えたことや正確性の高い情報の入手が容易になったからでしょう。 国策(国威発揚の手段)として資本主義陣営、米帝陣営、日中戦争時の恨みなどから敵意植え付けを行い、それを疑いなく庶民は受け入れてきましたが、ここまで時代が変化してくるとプロパガンダのメッキも剥がれ誰も信じなくなっていきます。それどころか、中国人が国慶節や春節などの長期休暇ごとに気軽にバカンスに日本に訪れ、食や文化、ショッピングを楽しみ、中国国内のインフラやレジャーも日本のものを多く取り入れて、人間の見た目もほぼ変わらないため、警戒レベルがほとんど最低ラインにまでなっています。 あと経済格差がなくなったことが一番大きいのではないでしょうか。

そんななかで、ちょっとした出来事がありました。

ホテルで中着の使用済みパンツや寝間着、上着、靴下を脱ぎ散らかしたままに日中外出し、夕方に部屋に戻ると
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このように、しっかり、綺麗にたたまれていました。
こちらがちょっと恥じ入ってしまいました。
これって 「お・も・て・な・し! おもてなし!」じゃん。
確実に中国も変わっています。
結局の所 「貧すれば鈍す」 「衣食足りて礼節を知る」
だけのことではなかったのか。 と思います。

これから移民政策によって気質の洗い中南米の人たちが多く入ってきます。仕事で某県にいたときに多くの中南米人がいましたが、洗濯機の盗難、カーナビ(車上荒らし)、騒音(夜遅くまでパーティー、音楽もガンガン)、暴走運転(無保険)、けんか、傍若無人で結構すごかったです。市営住宅も完全占拠していました。他国に来てる遠慮というものは一切ないようでした。
 これからは、このような文化背景のまったく異なる人たちと生活をともにしていくことになるので、どのように最終的に落ち着いていくのかとよく考えたりします。
ただし、エントロピー増大の法則で 最終的には地域差、民族差ってのはあまりなくなり世界中どこへいっても金太郎飴のようになっていくのではないでしょうか。

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重慶のお茶店で。 お茶のサービスをしてくれます。