昨晩(明け方) ポエム が聞こえて来ました。

人は何か安心できるものを持っていないと不安になる。

歳を取れば取るほどお金を持っていないと不安になる。

若いときは一文無しに近くても、希望をもって生き生きと正道を歩むことができたのに、

40歳、50歳 となると ほとんどの人が不安回避の衝動のために金にえげつなくなっていく。
守銭奴とよばれるようにさえもなってくる。

60歳、70歳 となると極まり 社長、会長、役員 と そりゃもう 修羅道畜生道。 とどのつまり金のなる木に意地になってしがみついているだけ。 権力を使って、木にしがみつこうと試みる他者たちを次々に振り払う。

そんなに、持ってどうする? 必要充分量以上に持って何がしたい? 他人から奪い取ってまで集めてどうする?

「死ぬまで絶対離れるか」と自分に都合の良い解釈をして絶対に木から離れようとせず、蜜を少しでも多く吸い続けようとする様、昆虫以上に厄介で醜い。 さながら木に寄生するカイガラムシ

自然界の昆虫、動物は例外なく必要以上には、食べる以上には餌を取らないし、貯蓄もしない。

いや、例外はある。リスやアリはたしか穴を掘って貯蓄したっけかな?!それでも、量はたかだか知れている。基本は次の春が来るまでの繋ぎの分だけ。 

でも、人間は自然界の掟に反し際限なく貯蓄をしようとする。死期をむかえ意識の残るその最後の瞬間まで欲が尽きることはない。他の動物種にはみられない固有の現象。

死んで残った財産は残念ながらあの世に これっぽっち も持っていけない。 そりゃ苦労して得たものだから未練が残って死ねない。執着心だって出るので無駄に消費も出来ない。 死も怖くなる。 色々なものを犠牲にしてあくせく貯めた俺だけの財産だもの。

それでも生が与えられれば、同時に近々に死が与えられるのは自然界の条理。 生死は一対のものだ。 生まれる前は死んでいたのか、無だったのか覚えていない。 

言うなれば 「死死死 一瞬の生 そして元に戻り 死死死。」なんだろうか。 又は「無無無 一瞬の生 そして再度、無無無。」ってな感じなのだろうか。

死んで残った腐肉には ハイエナ、ハゲタカ、ハエ、ゴキブリ、ウジ虫 バクテリア と色々と匂いにつれられ寄り付いてくる。 自分で狩りをしない死肉漁り専門の多くの動物たちの餌、肥やしになる。そして最後にはその形跡すらなくなる。

自分が生きていた頃にその存在を全く気に留めていなかった下賤扱いしていた生物たちへの盛大な餌やり、ご褒美だ。 自分の死後の餌やりなので自分は決して見物できない。いや、見物できたとしても気分が悪くなるだけか。 錦鯉の餌やりと違って腐肉あさりの餌やりが趣味とは悪趣味だ。 何がおもしろくて蓄財したのだろう。 なんの因果で見ず知らずの動物の餌やりをすることになったのだろう。

金や財産は自分と家族が健康的に当面生きていくのに必要な量だけあればいいように思う。必要な量は家族や環境によって違う。でも100億円とかはいらないはずだ。生まれた歳から100歳になるまで一年に1億づつ消費とかわけわからん。 偏りなく多くの家族がそんな感じでなんとなく満たされていたら不足を嘆いて目くじら立てて騒ぐ人もずっと少なくなるだろう。

生まれて来る赤ちゃんは 金も持たず、服も着ず、食べ物も持たずにこの世に神々しく降り立ち、周りの多くのものに笑顔と感動を誘う。まるで、これ以上の喜びはないかのように。

死ぬときも何も持たされずに焼かれて埋められる。装飾品や眼鏡でさえ焼却場はお断り。 死ぬときも、金を持たず、服も着ず、食べ物も持つ必要がないのだ。 不安に駆られて蓄財に励んでも意味がないと悟れ。 たとえ負け犬根性と誹られても死んでしまえば皆平等。 無の世界に帰るのだから上も下もない。蓄財量の多寡も意味を持たない。 次は何時何に生まれ変わるのかを長いこと暗闇で待つばかり。

ほとんどの死者は何にも生き返ることはないだろう。輪廻転生も極一部。魚にでも生まれかわれば幸運の部類。そう、だからこそ生きている今が大事なのだ。

楽しく今を皆と生きよう。独占しようと思うな。骨の髄までしゃぶろうと思うな。分かち合え。奪うな。与えろ。

さすれば、あなたも有形無形に様々なものが与えられるだろう。金は幻想だ。仮想通貨なのだ。

と明け方に受信しました。。。。

イメージ 1


電車を貸切独占乗車しても、何も楽しくない。虚しいだけ。